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ふろしきの歴史

奈良時代

「包みもの」のはじまり

我が国に、布が存在してより「包みもの」の歴史が始まるわけですが、それは最も単純な一枚の布であるため、裁断面が縫製するようになるものの、現在に至るまで形、使用方法の変化はみられません。「包みもの」は素材、染織方法、意匠文様が時代と共に発展、変化を遂げていったにすぎないのです。つまりは、「包みもの」の歴史は名称の変遷であるといえます。包みの名称を有するもので現存するものは、正倉院蔵の御物を包んだ収納専用包みがあり、いずれも収納される品物を想提して設計され収納物の名称が墨書してあります。中国文化摂取が盛んであった奈良時代、文字によって包みものを表していました。包み方は平包みで、布に付けられた紐で結んで収納物を固定して唐櫃(からひつ)に入れて保管していました。

右包み・左包み 1270余年に及ぶ包み方の伝統

現在我々は季節や慶弔時の贈答品を包む時祝儀は右包み、不祝儀には左包みで贈り、百貨店包装紙による包み作法も同様に行われています。こうした包みの作法は元正天皇の養老3年(719)2月3日「壬戌初令天下百姓右襟」(『続日本記』巻八)の法令が発せられ、諸民の左袵(さじん)を禁じ、すべて右袵(うじん)に改めたことに起因します。この法令によって左袵の風習は暫時なくなり、一般の和服は右袵による着装方法が取られるようになりました。右袵とは着用者の右前を下に、次に左前をその上に重ねる着装法であり、今日の婦人服の合せ方は左袵で、和装は男女とも右袵になります。右袵が一般化すると、左袵は物事の逆様、つまり縁起の悪いことを意味するようになり、平常と異なる状態、すなわち死人は生きている人と区別して左袵に着せるようになりました。こうした風習はやがて包みものの世界にも及び、陰陽道の生・死、吉・凶、晴・穢、清浄・不浄、右・左、奇数・偶数というような中国二元論的宇宙観ともあいまって、慶事包みは右包み、弔事包みは左包みに包む作法が普及したのです。現在、風呂敷や包み袱紗を使って贈りものをする時、例えば結納目録や婚礼内祝を包む紋付風呂敷は、結ばず平包みで右包みとし、香典や弔用供物は左包みにしています。実に1270年余に及ぶ包み方の伝統が今も継続していることになるのです。

結納目録、結婚のお祝い、慶弔金封包などの場面で使う包み方です。 右包みは慶事(喜ばしい場面)、左包みは弔事(悲しい場面)、というふうに場面に合わせて包み方をかえます。

平安時代後期 南北朝時代

名称の変異

平安時代後期(藤原時代)の『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』(935年頃成立)には衣ぼくの註として古路毛都々美(ころもづつみ)と呼んでいたことがうかがえます。

この包みの使用状況は後鳥羽天皇の文治4年(1188年)9月15日、四天王寺へ奉納された扇面古写経(画像参照) 巻七 市場図の下絵に女房が衣類を包んで頭上運搬する姿が見られ、平安後期の風俗を表しています。

南北朝時代の『満佐須計装束抄(まさすけそうぞくしょう)』源雅亮、康永2年(1343年)には「ひらつつみにて物をつつむ事。」の項目に、衣筥を包む布の四隅を結ぶ順序が記載され、包み布を「平包」と呼んでいます。

室町時代

風呂文化と風呂敷

室町時代頃より、包みものと風呂の関係をうかがわせる記述がみえはじめるようになりました。当時の辞書である節用集にも包み布は平包(ヒラヅツミ・ヒラツツミ)とあります。鎌倉時代、寺院の施浴が盛んになり、『吾妻鑑(あずまかがみ)』(1273~1304年成立)には源頼朝(1147~99年)が鎌倉山内の浴堂で1日100人、のべ1万人の百日施浴を行い、幕府が尼将軍政子追善に長期施浴を行った記述があります。この風習は室町時代にも引継がれ「功徳風呂」、「非人垢摺供養」などと呼ばれました。

将軍・足利義満が室町の館に大湯殿(おおゆどの)を建てた折、もてなしを行うに際し近習の大名を一緒に風呂に入れたところ、大名達は脱いだ衣服を家紋入りの絹布に包み、他の人の衣服とまぎれないようにし、風呂から揚がってからはこの絹布の上で身繕いをした、という記録が残っています。また『実隆公記(さねたかこうき)』では将軍足利義政室、日野富子(1440~96年)が毎年末、北大路の屋敷で両親追福の風呂を催し、湯殿をもたぬ下級公家や縁者を朝から招いて入浴させ、お斎として食事を供したと記述しています。ここでいう風呂とは社交儀礼の場であり一種の遊楽をともなった宴を催すことを「風呂」といい、入浴にはいろいろな趣向がこらされ、浴後には茶の湯や酒宴が催されました。

当時の風呂は蒸気浴で、蒸風呂にあっては蒸気を拡散し室内の温度を平均化するため、床には、むしろ、すの子、布などを敷きました。風呂で敷く布は、たしかに風呂の敷きもので「風呂敷」と呼ぶことが的を得た名称であるといえるでしょう。蒸し風呂の敷きものとしては、吸湿性も良く丈夫で乾きも早い麻布が用いられたようです。室町時代には武家故実や伊勢流・小笠原流による折形の礼法が整って、贈答や礼式に於いて奉書や鳥の子紙、水引などによる包み結びの式法も広まりました。いろいろな品物包みや包み方の種類も増え、熨斗包み・草花包みなど「包み」を付加した言葉も多く使われていました。「包」を冠した名称も多く、包飯(強飯を握り固め卵形にしたもの)、包覆(物を包み覆うのに用いるもの)、包金(包んだ金銭)、包紙(物を包むのに使う紙)、包状(紙で包んだ書状)、包袋(物を入れる袋)、包文(薄様などで上を包んだ手紙)、包物(布施や贈答とすべき金銭・布帛を包んだもの)、包焼(魚・肉を物の中に包んで焼いたもの)など「包」のつく呼称が増すにしたがって、主として衣類を包んだ「平包」の明確な定義付けがしだいにぼやけてきました。より明確に平包の形態や素材感を表現する言葉として「風呂の敷きもののような包みもの」即ち「風呂敷包み」の呼称を持つことになったと推測されるのです。

江戸時代

江戸文化に浸透する風呂敷

江戸時代初期、都市生活の発展を反映し、湯屋営業も普及し、入浴料をとって風呂に入れる銭湯が誕生しました。『慶長見聞集(けいちょうけんもんしゅう)』三浦浄心(1614年)には、天正19年(1591年)に伊勢与市が銭瓶橋に銭湯風呂を建て、永楽一銭の入浴料を取ったとあります。これより居風呂・鉄砲風呂・子持風呂・戸棚風呂・五右衛門風呂などいづれも湯を張った「お湯」が出来、その種類も増しました。それらはいずれもが蒸し風呂ではなく、湯を張った風呂でした。奈良時代の温浴は沐浴潔斎であり、入浴作法が定められ、結界思想もあって入浴には必ず明衣(麻白布の衣)をまとい、鎌倉、室町期もこの作法に準じましたが、江戸期になるとこれが簡略化され、湯具としては手拭・浴衣・湯褌・湯巻・垢すり(呉絽の小布)・軽石・糠袋・洗い子などを風呂敷に包み銭湯へ通うようになりました。そして風呂敷はやがて銭湯などで他人のものと区別しやすいように家紋や屋号を染めるようになっていきました。こうして、湯道具を”風呂に敷く布”のようなもので包むようになり、その四角い包み布を”風呂敷包み”と呼ぶようになった、ということが考えられます。

江戸初期の作家、井原西鶴(1643-93年)の文学作品中には風呂鋪包、風呂鋪つつみ、お着物の入りたる風呂敷、などの風呂敷と包みを合成した言葉が多く見られます。

風呂敷という名称に関する最初の記録は、徳川家康(1542~1616年)没後の元和2年(1616年)に生前の所蔵品を近親に分散した際の遺産目録のなかで、尾張の徳川家が受けついだ明細書である『駿府御分物御道具帳』に見られます。ここで言う風呂敷は、こくら金入敷物と並び記されています。木綿の生産は各地にはじまったばかりであり、木綿の敷物は当時としては高級品でした。家康の所蔵した「こくら木綿風呂敷」は字義の通り、風呂の敷物であり、包みものとしての風呂敷ではなかったと思われます。この記録から風呂敷の名称は、戦国時代にはすでにあり、平包から風呂敷へ呼称の変化する時期は『近世事物考』久松裕之(1848年に記す)に「寛保の頃より平包の名はうしないて、物を包む布を、皆ふろ敷と云なり」とあることから元禄・宝永の頃までは、平包と風呂敷包みの呼称が混在し、次第に風呂敷に統一されたのだと思われます。現在でも平包みと呼ぶことはありますが、この場合は風呂敷を結ばずにたたむ包結方法をさし示す言葉として用いています。

江戸中期、古学・国学の発達から近世の学者達によって事物起源や語源による語彙の解明をすることが盛んとなって、風呂敷の解釈も試みられるようになりました。

「浴後に敷いて座とするものの名」
『倭訓栞(わくんのしおり)』谷川士清(1707~76年)
『屠龍工随筆(とりゅうこうずいひつ)』小栗百萬(1724~78年)

「風呂の場所に敷きて浴衣にひとしきもの」
『本朝世事談綺(ほんちょうせじだんき)』菊岡沾涼(1734年刊)

「湯上り場所に敷き、また物を包むものの名」
『夢の代』山片蟠桃(1748~1821年)
『半日閑話(はんじつかんわ)』太田南畝(1823年迄に記す)

「入浴に際し衣服をつつみ、浴後これを敷くものの名」
『南嶺遺稿(なんれいいこう)』多田義俊(1757年刊)

「風呂の敷きもの、足をぬぐうものに似た包みものの名」
『貞丈雑記(ていじょうざっき)』伊勢貞丈(1843年刊)

この風呂敷用途は主として敷きもの、拭きもの、包みものの兼用布として記載されています。浮世絵、絵双紙類の湯あがり、行水、風呂場(銭湯・家庭のすえ風呂)髪洗いなどを題材とした作品も多くありますが、上述の定義にあるような風呂敷を浴後に敷いたり、拭いたりしている作品は無きに等しいです。

江戸前期には湯文字・湯褌をつけた入湯作法も江戸後期には裸で湯へ入るようになり、銭湯へ通う姿も行きは浴衣をかかえ、帰途は衣類をかかえて風呂敷を使わずに描かれたものが多く、浴場での脱衣に関しては、衣桁や衝立、あるいは竹竿に着物や帯・手拭・ぬか袋などをかけています。銭湯板敷には衣類をおく棚が設けてあるものや、柳行李(やなぎごおり)や丸竹籠に衣類を入れ置き、ここでも風呂敷のある脱衣風景というものは非常に少ないです。手足や身を拭くのは、手拭1本あれば良いわけで、風呂敷で拭く必要もなく、湯上りに敷物代りの風呂敷を敷かずとも着替えは板敷か畳の上で行うようになっているので、直に座しても良いのです。

室町時代、風呂に招かれた大名達が衣類を包んだ帛紗から、蒸風呂の敷きもの、そして江戸の銭湯も風呂敷包みで初まるというように、風呂とは縁の深い兼用布が、時代が下がるにつれて入浴作法が変化して、必ずしも風呂で使う包み布でなくても、風呂敷という名称が包みものの総称として定着したとのだと思われます。

ふろしきは、商業の発展とも大きく関わっています。江戸や大阪、京都といった都市が形成されるにつれ、商業が活発になっていきました。そのような社会情勢の中で、商人達はさっそうとふろしきに商品を詰め込み、売り歩いたことでしょう。形を選ばず、ものを運搬できる便利さが重宝されたこともさることながら、屋号や商標を染め抜いたふろしきは商人にとって象徴ともいえるべきものでした。

江戸の生活者がどれほどに風呂敷を用いたかは、寛保3年(1743年)江戸に店舗をかまえた呉服商大丸の風呂敷仕入高をみても知ることが出来ます。寛延3年(1750年)には14,500枚であり、78年後の文政11年(1828年)には60,670枚迄増加の一途をたどっています。『八王子織物史』にみる大丸一店に於いてもこの数量であるから、その販売量の多さが理解されます。江戸風俗絵図その他を見るに、いたる処で風呂敷の人力運搬が見られ、かもじ売り・小間物売り・針売り・お六櫛売り・呉服屋・端裂売り・古着屋・庖丁売り・古本屋・絵草紙屋・貸本屋・猿廻し・角兵獅子・宝船売り・万歳(大黒舞)・七夕短冊売りなど実に多くの行商人に風呂敷が利用されたかが証されます。

『守貞漫稿』(天保8年(1837年)~嘉永6年(1853年)までを記述する)によると、当時の風呂敷は一般に麻布や木綿地のものを用い、一幅(約34cm)から五幅までの寸法のものがありました。民間では衣類を運ぶときは柳行李に納めてこれを風呂敷で包み、背負って運んでいました。また、江戸では火事が多く、商家に上がっている奉公人や、夜鷹(よたか-非公認の遊女)などの人々は、火災に備えて五幅風呂敷(約170cm)の上に夜具を敷いて眠り、いざ、火事が起こった際には布団に衣類や所持品を投げ込んで、布団ごと風呂敷で包んで避難していたそうです。

明治時代

『贈る』『貰う』新たな風呂敷の需要

時代が明治となり、四民平等の思想が国によって広められ、誰もが名字を持つことになりました。平民までもが名字・家紋を持つことになると、にわかに紋章入りのふろしきが増えるようになりました。紋章入りのふろしきは、進物用として使われるようになり、実用品であったふろしきの新たな需要を呼び起こしました。定紋や苗字を印入する風潮は、明治3年の平民苗字許可令、明治8年の平民苗字必稱義務令を機会に平民の苗字創出が全国的規模で行われたことにあります。苗字の創造は家紋の創作にもつながり、明治以後、にわかに紋章入り風呂敷が増加することになります。定紋は風呂敷の他、掛袱紗・重掛・鏡掛などの布帛製品、そして漆器・陶器類にも盛んに用いられるようになりました。現在我国の苗字の数は13万3700種類、紋章は約2万種類もあり、昔も今も定紋風呂敷は全て誂注文で染められ、これは筒描藍浸染の技法で行われることが一般的でした。

明治維新から日清戦争が始まる迄の時期は、近代洋式技術を摂取した時期でした。外国人技術者の指導による技術者の育成、伝習生の派遣、洋式機械の輸入、勧業博覧会開催など近代染織技術を移植する努力を行いました。日清・日露戦争を通して、我国の繊維工業は飛躍的な発展を遂げ、資本制生産へと移行したのです。明治時代を通して風呂敷業界での変化は、手織機から力織機へ、小幅から広幅織物へ、自家生産から工業生産へ、天然染料から化学染料へ移行する途上にありました。

この時期、洋式カバンや瓶類が出廻り始め、明治末年には三越呉服店の包装紙が登場しましたが、殆どの日常運搬には風呂敷が用いられていました。実用品、贈答品として幅広く使われるふろしきの需要はこのような技術革新が行われるに従い、需要の増加と共に、短期間で大量に生産が可能な工業的なものへと変化したのです。

「泥棒さんのふろしき」としてイメージされる唐草のふろしきは、だいたい明治30年代から40年代にかけて生産されるようになりました。唐草文様は、古代より世界各地で用いられ、日本においても古墳時代の馬具や、法隆寺金堂の瓦、仏像の台座など、あらゆるところにそのかたちがみられます。蔓草(つるくさ)は生命力が強く、茎をどこまでも伸ばしてゆくところから、長寿や子孫繁栄の象徴とされています。唐草文様のふろしきを、はじめに誰がデザインしたかは不明ですが、この文様は庶民にとって非常になじみのあるものでした。単純明快でインパクトのある唐草文様ふろしきは、消費者の間ですぐに受け入れられ、また工業的に生産しやすいことも手伝って大量に生産されました。かくして唐草模様の綿風呂敷は風呂敷の代名詞の如くになり親しまれましたが、消費者主権の時代が訪れ、昭和49年繊維製品の取り扱い表示記号の表示法改正にともない風呂敷の洗濯堅牢度などが検討されはじめ消費者クレ-ムの対象となり、また嫁入荷物も洋風化し布団袋などで運送されるようになって、現在唐草の生産量は最盛期の2割にまで減少しました。それでも唐草模様はふろしきの代名詞ともいうべき存在であり、作られてから100年経過した現代においても生産され続けています。

ちなみに唐草文様が「盗人さんの風呂敷」と呼ばれるのは、これはTVコマ-シャルの影響からであるといわれています。長年月に亘って生産されつづけた大版の唐草風呂敷はどの家庭にもあり、盗人が、盗みに入った家の大版風呂敷で担ぐ姿からイメ-ジがあることと思われます。

昭和時代

包みものから袋ものへの移行

第2次大戦直後から昭和30年代までの10年間は、敗戦による統制時代を背景に消費物資が欠乏し、食料の生産手段をもたない都市生活者は、衣料を農家で食物に変え、モンペ姿の主婦達が家族のために風呂敷で食物を背負って運びました。戦後、合成繊維の風呂敷が次々と製品化され、昭和34年の明仁殿下と美智子様の御成婚による和服ブームも到来して、当時の市町村合併記念風呂敷、企業創業記念風呂敷、昭和39年東京オリンピック記念風呂敷など史上空前の風呂敷需要を巻きおこしました。

昭和40年代は、従来からの風呂敷使用が手提袋による垂下運搬に大きく変化した時期でした。昭和38年に伊勢丹百貨店が顧客に紙製手提袋のサービスを開始して以来、各百貨店・小売専門店でも同様のサービスを行うようになり、紙袋による運搬は急激に消費者間に浸透していきました。

昭和44年頃には現代感覚のデザインによる紙製手提袋がいたるところで市販され、若者達が先を競って愛用するところとなり、紙のショッピングバックは流行現象を巻き起こしました。

昭和45年には渡辺製作所の手提用の角底袋製機が稼動し、毎分2000袋の高速生産を行い高度成長時代のデパートやスーパーの大量需要に対応したのです。これと同時期に、和装小間物メーカーを中心として製作された布製手提袋も多様な展開を見せました。布製袋は紙質強度に不安をいだく中年婦人層の支持を得て、百貨店には販売コーナーが設置され、急速にショッピングバックと呼ぶ袋物市場が構築されました。こうして包む文化を表象する風呂敷にとってかわり、袋物・鞄に表現される詰め込む文化の時代が定着しました。「いくら作っても余ることはない」といわれていたふろしきも、袋物の市場が拡大するにつれ生産は、これ以降減少傾向を辿ることになりました。このことは風呂敷卸問屋間においても必然的に布製袋を取扱うことになり、風呂敷販売の減少傾向がつづく一方で、皮肉なことに布製手提袋の販売によって総売上額は従来以上に増大しました。この時代の袋物の多くに、縞やローケツ染など風呂敷生地の使用や風呂敷のもつ容積変化可能の機能性を袋物に転化しようとする努力がうかがえます。

紙製・布製の手提袋、スーパー関係で配布するビニール袋の盛行は昭和40年代に風呂敷による人力運搬の習慣を袋に変え、鞄の普及とも相まって日常生活のなかで風呂敷を用いる運搬行為は暫時減少していきました。

ふろしき卸問屋の当社(宮井株式会社)は、このころファスナーの開閉によってふろしきにも手提げ袋にもなる国華風呂敷(こっかふろしき)を開発しました。この国華風呂敷は、昭和42年から52年に至る10年間の間で400万枚も販売された大ヒット商品となりましたが、消費生活が豊かになるにつれ兼用できるものよりも用途に専用に使えるものが求められるようになり、やがては生産を終了するようになりました。国華風呂敷は、まさに包み物から袋物への過渡期に登場した商品であるといえます。

消費者運動とふろしき

昭和30年代、高度経済成長の時代に入り家計の収入は増し、昭和30年のエンゲル係数は47%、昭和40年は38.1%に低下しました。企業の成長にともない、関係先に宣伝もかねて配布する風呂敷の需要が増大した時期でもあります。多くの合繊メーカーは新素材を発表し、メーカー商標により品質を保証された合繊風呂敷が市場を席巻したのです。然しながら多くの商標群は消費者間に誤認を生み、政府は消費者保護の立場から「家庭用品品質表示法」で組成表示を強制し、繊維名の統一、混用率や、表示者名の表記を定めて適正表示を義務づけました。この時期はデパートのサービス袋もいまだ普及していず、まだ人力運搬をする風呂敷利用者は多く、実利的贈答品として風呂敷が使用された時代でした。

経済的繁栄は人々の生活に「消費は美徳」という価値意識を植えつけ、消費行動が変化し、この状況は「消費革命」と呼ばれました。風呂敷はかつてない生産枚数を計上しました。昭和40年代の消費者運動には生活者の立場から企業を批判する動きがあらわれて、昭和43年には消費者保護基本法が施行されました。消費経済を享受した結果、公害問題は多発し、蔓延的ともいえるゴミ公害が起こり、昭和46年、美濃部都知事はゴミ処理の危機を議会で訴えるに至りました。昭和40年代中頃は、紙製手提袋が高速生産され、デパート・スーパーストアーの大量需要に対応し、またさまざまな布製ショッピングバックが全盛を極めました。

風呂敷の将来に対する不安感が業界に湧出するなかで、昭和45年万国博覧会で記念風呂敷の製造販売する許諾を協会に得る必要もあって、東京・名古屋・京都・大阪の四大織物卸商業組合に所属する風呂敷関係者が集い、日本風呂敷連合会を結成しました。これを契機として、折からの消費者団体のゴミ追放運動に業界参加のかたちを取り、昭和47年11月には東京ふろしき振興会が「風呂敷でゴミ公害をなくそう」と一般に呼びかけ、日比谷公園から数寄屋橋迄パレードを行いました。この翌年には大阪で同様のパレードを御堂筋で展開しました。これは第一次オイルショックにも迎合して、省資源節約経済思想の提唱を行うことでもありました。

昭和60年に入ると街角での風呂敷運搬は見られなくなりましたが、それでも風呂敷総生産数は5000万枚、市場は500億円と推定されました。この年の婚礼数は77万組で、引出物を包むナイロンぼかし浸染の風呂敷生産は約2300万枚といわれています。この頃から風呂敷業界では販売促進の方法として、またゴミ公害対策の訴求も兼ねて、得意先での催事やきもの教室、その他文化教室において風呂敷の包み方を一般生活者に指導提案することが盛んになり、テレビ・新聞・家庭雑誌も和の文化を表現する一素材として風呂敷を取り上げる回数が増しました。風呂敷は、自然環境保護・地球保全を希求する思想背景と融合しながら静かなブームを巻き起こしました。

現在

くらしの布として、いきつづけるこころ

現在、ふろしきは実用品としてよりも、贈答品としての需要がほとんどです。関西地方では婚礼内祝・快気祝・叙勲内祝、関東地方では仏事返礼などの答礼品として、ふろしきは多用されています。これは、ふろしきには幅広い価格ランクがあるため、予算にあわせて自由に選択がしやすいことや、ふろしきのデザインや、配された文様によって贈る人の気持ちを間接的に表現することができる、また、かさばらないため何枚重複して贈られても邪魔にならない、など様々な理由が挙げられますが、いずれもふろしきの普遍性、柔軟性が指示されてのことであると考えられます。

普遍的な一枚の四角い布であるふろしきは、どのような時代でも社会や世相に適応しながら使われ続け、現在に至っています。最も簡単な一枚の四角い布は長い歴史の中で人々の生活に溶け込み、様々な背景、位置づけを有するようになりました。ふろしきという名は無かったにせよ、人類は布を、包みもの、覆いもの、敷きものとして使用してきました。一枚の布としてのふろしきは、「くらしの布」として、今も変わらず人々の生活の中で様々な使い方をされています。ふろしきは”包みもの”としてのみならず、生活布としてこれからも使われ、人々の生活の中で生きつづけてゆくことでしょう。