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風呂敷の歴史

『贈る』『貰う』新たな風呂敷の需要

時代が明治となり、四民平等の思想が国によって広められ、誰もが名字を持つことになりました。平民までもが名字・家紋を持つことになると、にわかに紋章入りのふろしきが増えるようになりました。紋章入りのふろしきは、進物用として使われるようになり、実用品であったふろしきの新たな需要を呼び起こしました。定紋や苗字を印入する風潮は、明治3年の平民苗字許可令、明治8年の平民苗字必稱義務令を機会に平民の苗字創出が全国的規模で行われたことにあります。苗字の創造は家紋の創作にもつながり、明治以後、にわかに紋章入り風呂敷が増加することになります。定紋は風呂敷の他、掛袱紗・重掛・鏡掛などの布帛製品、そして漆器・陶器類にも盛んに用いられるようになりました。現在我国の苗字の数は13万3700種類、紋章は約2万種類もあり、昔も今も定紋風呂敷は全て誂注文で染められ、これは筒描藍浸染の技法で行われることが一般的でした。

明治維新から日清戦争が始まる迄の時期は、近代洋式技術を摂取した時期でした。外国人技術者の指導による技術者の育成、伝習生の派遣、洋式機械の輸入、勧業博覧会開催など近代染織技術を移植する努力を行いました。日清・日露戦争を通して、我国の繊維工業は飛躍的な発展を遂げ、資本制生産へと移行したのです。明治時代を通して風呂敷業界での変化は、手織機から力織機へ、小幅から広幅織物へ、自家生産から工業生産へ、天然染料から化学染料へ移行する途上にありました。

この時期、洋式カバンや瓶類が出廻り始め、明治末年には三越呉服店の包装紙が登場しましたが、殆どの日常運搬には風呂敷が用いられていました。実用品、贈答品として幅広く使われるふろしきの需要はこのような技術革新が行われるに従い、需要の増加と共に、短期間で大量に生産が可能な工業的なものへと変化したのです。

「泥棒さんのふろしき」としてイメージされる唐草のふろしきは、だいたい明治30年代から40年代にかけて生産されるようになりました。唐草文様は、古代より世界各地で用いられ、日本においても古墳時代の馬具や、法隆寺金堂の瓦、仏像の台座など、あらゆるところにそのかたちがみられます。蔓草(つるくさ)は生命力が強く、茎をどこまでも伸ばしてゆくところから、長寿や子孫繁栄の象徴とされています。唐草文様のふろしきを、はじめに誰がデザインしたかは不明ですが、この文様は庶民にとって非常になじみのあるものでした。単純明快でインパクトのある唐草文様ふろしきは、消費者の間ですぐに受け入れられ、また工業的に生産しやすいことも手伝って大量に生産されました。かくして唐草模様の綿風呂敷は風呂敷の代名詞の如くになり親しまれましたが、消費者主権の時代が訪れ、昭和49年繊維製品の取り扱い表示記号の表示法改正にともない風呂敷の洗濯堅牢度などが検討されはじめ消費者クレ−ムの対象となり、また嫁入荷物も洋風化し布団袋などで運送されるようになって、現在唐草の生産量は最盛期の2割にまで減少しました。それでも唐草模様はふろしきの代名詞ともいうべき存在であり、作られてから100年経過した現代においても生産され続けています。

ちなみに唐草文様が「盗人さんの風呂敷」と呼ばれるのは、これはTVコマ−シャルの影響からであるといわれています。長年月に亘って生産されつづけた大版の唐草風呂敷はどの家庭にもあり、盗人が、盗みに入った家の大版風呂敷で担ぐ姿からイメ−ジがあることと思われます。

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